伝統ある日本人形文化の
振興と継承のために

五月人形――鍾馗

今回は、端午の節句に飾られる鍾馗人形のモデルにもなった「鍾馗」について解説します。鍾馗は、中国から来た疫病除けの守り神です。守り神として祀られるようになった鍾馗の伝説を探りました。鍾馗は、見た目は恐ろしいですが、恩義に報いることを忘れない誠実な心の持ち主です。

ご恩返しに鬼退治

鍾馗は、唐代に実在したとされる人物です。時代は、武徳年間(618~626)まで遡ります。鍾馗は難関といわれる官僚登用試験である科挙に挑みましたが、いかつい容姿が理由で不合格になってしまいました。中国陝西省にある終南山の故郷に戻りましたが心の傷は癒えず、自ら命を絶ってしまったのです。それを知った唐の初代皇帝高祖は鍾馗を不憫に思い、彼を試験の合格者とし、手厚く葬りました。
時は流れ、第六代皇帝玄宗の治世、開元年間(713~741)。玄宗は瘧にかかり、高熱でうなされているとき、夢で鍾馗に出会います。『中国妖怪人物事典』ではこう書かれています。
「夜中に小さな妖怪が表れた。その妖怪は、玄宗が寵愛した楊貴妃の香袋と玄宗の玉笛を盗もうとした。その鬼は自らを虚耗と名乗り、『人の喜びを憂いとする』と言った。そのとき、身体が大きく逞しい一人の男が表れ、虚耗をつかみ上げ、引きちぎり食べってしまった。その男は、『臣は終南山の進士鍾馗と申し、武徳年間、科挙に落第し、石塔に頭をぶつけて死んだ者。高祖皇帝は臣を憐れみ給い、進士の資格に緑袍(緑色の上着)を賜い、手厚く葬ってくださった。その御恩を皇帝のご子孫たる陛下にお返しした』と言った。玄宗は目覚めると、病は全快していたという」(抜粋)。

悪を寄せ付けない鍾馗 見た目も最大の魅力

中国では、この伝説が広く知られるようになってから、鍾馗信仰が急速に広まっていきました。唐代では、年末に新しい暦が鍾馗図とともに臣下に下賜されていたという記録が残っています。その鍾馗図は、高名な画家である呉道子が描いたものだといいます。
十七世紀の明代末期から清代初期には、端午の節句になると厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれました。さらに、鍾馗を描いた紙を間口に張っておくと、さまざまな病気が入ってこないという言い伝えが定着していきました。
鍾馗信仰はいつ、どのようにして日本に伝わったか定かではありませんが、十二世紀頃に制作された絵巻物「辟邪絵」には鍾馗が描かれています。官人の衣装を着て、剣を持ち、鬼を退治する姿は何とも逞しく、守り神そのもの。男児を病から守り、健やかな成長を祈る五月人形の定番となった鍾馗。中国同様、日本でも鍾馗信仰は根付いています。

※瘧(おこり)とはマラリア原虫感染症の昔の呼び名である。

日本人形協会発行「にんぎょう日本」2020年9月号「素朴なギモンvol.65」を一部編集して掲載

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